こんにちは、特殊清掃専門店リライブル株式会社、代表取締役の鈴木です。
GW期間中を利用して数年前から行きたいと思っていた青森県へ行ってきました。
基本的にGWはどこも混むので自宅に引きこもるのが通例なのですが、妻は仕事、2人の子どももバイトや部活と予定があるので暇人の私は一人旅です。
ちょうど4月30日〜5月2日の2泊3日で連休の狭間の平日だったので、混んでいないと予想しての事です。(結果として大正解でした)
今回は弘前藩や津軽家のことを中心にかなりマイナーなお話が続くのですが、是非知ってもらいたいこともあるので記載しました。
現場の話を期待された一般の方は残念に思うかもしれませんが、最近依頼者様の中でも「全然関係ない話だったけど、歴史の話のブログが面白かったので連絡しました」なんてことも言われるので調子こいて書いちゃいます。
いつもビフォー・アフターの話ばかりでは同業他社さんと何ら変わりありませんからね。
そういう内容をお求めの方は過去のブログを読んで頂けると幸いです。
それにしても最近は現場の話と関係のないことばかり掲載しているので、SEO的には良くないなぁとは感じていますが仕方ないですね。
基本的には知人、友人向けのブログ内容になります。
1日目~青森上陸(岩木山・弘前市)
さて北海道から青森県に向かうには・・・
①JRと新幹線
②車とフェリー
③飛行機
と3パターン考えられますが、今回は飛行機を選択。
新千歳空港から青森空港まで空路で約40分、近いようで遠い青森へ!
空港を降りてレンタカーを借りて、まずは「高岡の森 弘前藩歴史館」へ向かいます。
『一応、補足』
・偉人への尊称(公や翁など)はややこしくなってしまうため基本的に省略させて頂きます。
・写真も1000枚近く撮りましたが一部だけ掲載、歴史の専門的なブログではなくあくまでも旅行記なので説明もなるべく簡略していますのでご了承ください。

GWにも関わらずほとんど見学者はおらず静かな環境で見学出来ました。
弘前藩歴史観~藩祖・津軽為信
ここは「弘前藩中興の英主」と称される4代目津軽信政と藩祖・津軽為信を中心とした弘前藩の歴史が学べます。

下克上を成した外様大名が幕末まで藩を維持できたのは全国でも稀なことだと思います。優秀だったのでしょう。
あまり津軽家のことを知らない方に“めちゃ簡単“に話をしますと戦国時代に南部家から独立し、豊臣政権にうまく取り入り大名となった下克上の人です。
津軽為信は立派な髭を蓄えていたことから「髭殿」なんて言われています。

著・岩井三四二
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などと比べるとメジャーな戦国大名ではありませんが新聞、電話、スマホも無い時代に日本の端っこで中央政権の情報収集に努め、その情報を優れた決断力と分析力を駆使し、「誰に従えば生き延びることが出来るか⁉」というサバイバル能力に秀でた数少ない英傑だったと思います。
お家騒動や大飢饉、配置換え(未遂)など大変なこと、トラブルが次々と起こりますが、最終的に津軽藩は幕末まで続きます。
そもそも津軽為信は出自もはっきりしない家から出て(諸説あり)、当時有力大名だった南部家から独立出来たことも時世を見る目が優れていたからでしょう。
時機を見る確かな戦略眼と知勇を兼ね備えた人物だったから”最果ての地”で生き残ったのだと思います。
謀略に長けていながら実は「義理堅い」という二面性も魅力の一つです。

お隣の高照神社(津軽信政公が祀られている)にも参拝
※R7年5月9日 追記
※話が前後してしまいますがここで掲載しておきます※
普段の生活に戻り、なにげにスマホを見ていると【弘前 国の重要文化財に指定 高照神社の廟所門が倒壊】
という記事を見てびっくりしました。
赤線の部分は私のことです。
神社から更に奥に霊廟があるのでまだ雪は若干ありましたがせっかくなので向かいました。
こんな感じで他には誰もいませんでした。
そして、木の間を抜けると目の前に↓の光景だったのですが、最初は「こういう形の何かなのか?珍しいなぁ」と思いましたが横から見ると・・・
横倒しになった門だったのです!
それでこのことを弘前歴史館の受付の方に写真を見せて伝えました。
青森県は特に雪害がヒドイ歳だったのであちこちで家や車庫などが潰れたり、リンゴの木が折れたりと想像以上の被害だったようです。
これも何かのご縁なので寄付等の公募があったら気持ちですが参加させて頂きたいと思います。
以上、追記でした。
以下からは通常の流れに戻ります。
岩木山神社
車で数分の位置に津軽の人々の心の拠り所と言われている岩木山神社にも行きました。
「津軽富士」とも称される美しい山で旅行中も岩木山は至る所から見ることができました。

雪深い地域なので雪害で壁が壊れていたり修復が大変そうです

あとでホテルから撮った岩木山
津軽信枚と二人の姫
弘前藩のことに興味をもったのは2代目藩主・津軽信枚(ノブヒラと読みます)と満天姫(まてひめ)と辰姫の話を知ってからです。

三男でしたが徳川家と縁が深く長男・信建が豊臣家側だったので家督を継ぐ事になったと言われています。イケメン武将だったようです。
当時、関ヶ原の合戦が終わったころは辰姫が正室でした。
実はこの辰姫は石田三成の実の娘です。
津軽為信や長男・津軽信建(ノブタケ)が豊臣政権時代に石田三成の世話になっていたため次男・石田重成(後の杉山源吾)も津軽藩で匿っています。
関ヶ原の合戦後、東北地方の”端を抑えたい”徳川家としては津軽信枚を懐柔するために徳川家の養女として満天姫と政略結婚させます。
片や白羽の矢が立った満天姫は福島正則の養嗣子である福島正之の子ども(後の大道寺直秀)を連れての嫁入りでした。
傍から見れば、石田三成の娘対徳川家康の養女という「津軽版・女関ヶ原の戦い」が勃発。
関ヶ原の合戦の後の婚姻のため徳川家の満天姫が正室になり、敗軍の将・石田三成の娘・辰姫は側室に降格しますが・・・。
最終的にこの2人の姫と信枚との関係性はどうなったのか?
その子どもたちはどうなったのか?
「そんな時代にそんなことがあるのか⁉」という驚きの結末です!
更に、満天姫の前夫の連れ子である大道寺直秀も一悶着ありまして満天姫が実の子どもを津軽藩存続のために毒殺したという噂話もあります。(諸説あり)
満天姫って福島家でも津軽家でも苦労します・・・。

著・古川知映子
そんなわけで「家康の養女 満天姫の戦い」(時代小説なので史実とは違うこともあるが)を読んで頂けると理解が深まるきっかけになると思います。
津軽家の菩提寺であり満天姫も眠る長勝寺にもお参りに行きました。

「長勝寺構え」と言ってこのお寺を中心に「弘前城の第二の防衛ライン」として33の寺院が連なっている全国でも珍しい禅林街が残っています。
弘前城の夜桜
ホテルにチェックインし車を置いて、徒歩で10分位の「弘前城の桜まつり」を見てきました。
弘前城は現存12天守の一つで全国でも貴重な城です。(但し、初代の5重5層の大天守閣は落雷で火薬庫に引火爆発して消滅し、今の天守は9代藩主・津軽寧親(やすちか)の時に再建された2代目天守閣だそうです)

3層の小さな天守ですが10万石に加増されて徳川幕府に再建を許された珍しい城なんです
今から10年前の2015年に石垣の修復のため、石垣から天守を一旦、引越しさせて今年が最後の歳だそうです。
この姿を見られるのもレアなので家族を置いてでも来てしまいました。
来年以降は石垣に乗った状態の天守に戻る予定なのでそれはそれで楽しみです。
下の写真は土台の部分で覆いは杭だそうです。

100年ぶりの修繕なのでこの状態はレアです
中学生の修学旅行の時に弘前城は見たような見ていないような曖昧な記憶だったのですが、今回訪れて当時よりは数倍も日本史の勉強をしているので見方が変わっています。
当時は「しょぼい城」というイメージだったのですが、現存する櫓や門構え、石垣の造りなど見れば全然しょぼくないです。
むしろ、江戸時代初期に日本の端っこでこれほどの規模の城を造れるということは驚異的です。

聚楽第に似た当時最先端の縄張の城郭だったそうです。4万石の大名クラスの城ではなかったのです。
津軽為信公の銅像
津軽為信の銅像は城外の弘前文化センターにあるのですが忘れないで写真撮影です。

城側に向かっています
興味が無い人はここに銅像があることも知らないでしょう。
どうやら戦前は城内本丸に配置されていたそうです。
しかし戦争中に金属供出で撤去されてしまったそうです。
平成16年に銅像は再建されたのですが文化庁からのお達しで”色々と条件”があるらしく「城内に置けなくなった」という話を聞きました。
郷土の英雄の銅像を国の命令で供出したのに復元したら城外に配置するってなんか変な話だと思いませんか?
しかし意外に全国でも同じような例があります、何とかなりませんか文化庁?

全国トップクラスのかっこよさです
津軽藩は面白い
知れば知るほど津軽藩は面白いのですが、細かく書いてしまうとめちゃくちゃ長くなってしまうので割愛しますが、興味が出てきたら是非調べてみてください。もっと色々なエピソードがあります。
世の中にもう少し知られて良いと思うのですが誰かうまく映画化とかしてくれませんかね~。
歴史のお堅い話ではなく、「下克上ありの立身出世物語」であり、「石田家や福島家との義を守る姿」や「二人の姫と子どもの愛憎」の物語があったのかと思うと津軽藩の始まりは侮れません!
青森県民は115万人しかいない上に、南部地方とも仲が悪いと聞いているので“津軽藩推し“は難しい話なのかもしれません。

昼と夜と2回訪問しました
2日目~むつ市(恐山・大湊・斗南藩・黒石城・浪岡城)
弘前市を朝6時に出発して3時間半かけて恐山に移動。
ここまで高速道路がありません(´;ω;`)
5月1日から開山ということでしたのでタイミングも天気もばっちりでした。
日本三大霊場の一つ(高野山、比叡山)と言われております。

山奥に立派な建物をよく建造したものだと感心します
遺品整理に携わる者としては参拝した方が良いと思えるところです。
「霊感が強い方は来ない方が良い」と言われているようですが、人それぞれの考え方、感じ方ですのでこればかりは行ってみないとわかりません。
霊を信じないとは言いませんが、恥ずべきことがないのであれば怖がる必要は無いと思っています。
まぁ、個人的な感想ですが、悪いことを実際にやっているような遺品整理業の人は来ない方がいいかもしれませんね。
1時間半ほど時間をかけて巡礼。
硫黄臭が苦手な人は具合が悪くなるかもしれませんし、服や身体に染みこむので服装には注意しましょう。
ここは人生で一度は訪れたいと思っていた場所だったので現地に来れて本当に良かったです。
雨降りだったら「ちょっと危なくて歩けないかな」とも思うので天気に恵まれたこともラッキーでした。
北の防人(さきもり) 大湊安渡館・北洋館
恐山からの帰り道に”北方警護の要”である大湊の「北洋館」を見学予定だったのですが休館中でした、残念。
最新情報がちゃんと更新されていないようで土日しか空いていないそうです。

海上自衛隊の艦隊
その代わり「むつ桜まつり」がやっていたので少し公園を散策。

むつ桜まつり
斗南藩関連4ヶ所巡り〜もっと知って欲しい柴五郎陸軍大将のこと
津軽藩とは少し別の話ですが、戊辰戦争で敗れた会津藩が移転させられた土地です。

斗南藩の表高は3万石と言われていたが実質は7千石くらいの厳寒不毛の地だった
土地は非常に枯れていて生き残った会津藩士たちは苦渋を舐めました。

藩主になった松平容大(かたはる)は様々なプレッシャーから若い頃グレたらしいです
孝明天皇の御宸翰(ゴシンカン)を頂き“真の勤王の士“だった会津藩・松平容保公の方だったのですが「勝てば官軍」とばかりに薩長閥は心無い対応をしました。

残念ながら特別見るべきものはなにもありません

字が小さいのか説明文が小さすぎるのか目が痛くなるレベルの字の小ささです
斗南藩出身で賊軍出身(前回ブログの桑名藩・立川尚文のところでも紹介しましたがこの言い方が好きではありません)で陸軍大将になった柴五郎が住んでいたといわれる場所を見に行きました。

陸上競技場やテニスコートがある場所で分かりにくい場所にあります
柴五郎という人物も前半はかなり壮絶な人生で、軍人になってから日本のため、日本人の名誉のために貢献した偉人です。

日本のために頑張った方なのでもう少し立派な説明文を作って欲しいと願います
義和団事変、日英同盟に関わっているのでその背景を説明すると物凄く長くなってしまうのでググってみてください。
また「斗南藩士の墓」にも行き、手を合わせてきました。

もう来ることはないと思うのでちょっと寄り道して斗南藩関連の位置を把握しにきました
黒石城跡(黒石市)
ここは前述した2代藩主・津軽信枚と側室・藤との子である津軽信英(分家・黒石津軽藩)の居城だった場所です。
※一説によると満天姫の子どもという説や側室から引き取って満天姫が育てたという説もあります。
3代藩主・津軽信義の腹違いの弟(石田三成の娘・辰姫の子ども)です。
津軽信英(ノブフサ)は文武両道でお世辞抜きにしても諸藩に噂が立つほど優秀で人柄も優れた好人物だったそうです。
江戸時代は津軽藩に限らず“長子継続“が基本でしたから、優秀すぎる弟が存在すると出来が悪い兄(たとえ普通でも)は苦労してお家騒動に繋がるようです。
ただ幸いなことに兄弟仲は良かったそうです。
こちらも5千石と小領ではありますが幕末まで続いています。
それにしても津軽家のお殿様の名前は普通に読めない人が多いです。

津軽家の殿様たちは激務だからなのか、極寒の地で塩辛いものを食べるからなのか短命のイメージです。残念ながら信英は43才で死去。
浪岡城跡(青森市)
1578年(天正6年)に津軽為信(当時は大浦為信)が攻めた北畠顕村の城だったところです。
今は跡地しかありませんが、「続日本100名城」に選ばれています。
2日目もかなりハードに動き回りました。

土塁が残っているだけなので興味がない人にとってはただの原っぱです。しかしこの城跡の価値はネットでは伝わりにくいです。
3日目~弘前市内から帰路までの路
金剛山 最勝院(弘前市)
3代藩主・津軽信義の時代に津軽統一時に敵味方区分なく戦死した全ての人々を供養するために建立されたそうです。
日本最北端に位置する重要文化財五重塔です。確かに立派です。
堀越城跡(弘前市)
弘前城が出来るまでの17年間、津軽氏が居城にした城跡です。
もう少し津軽家の知名度が全国区になれば観光地として再整備もされるのでしょうが現状は厳しいでしょう・・・。
護國山観音院 久渡寺(弘前市)
津軽家と縁深いお寺です。
二百段ある階段を登りますが苔や木を見ながらなので苦になりません。
津軽藩家老・森岡元徳が円山応挙に依頼した幽霊画「返魂香之図(はんごんこうのず)」が有名です。
津軽山 革秀寺(弘前市)
藩祖・津軽為信の霊屋(たまや)があります。
「豊太閤坐像」という豊臣秀吉が生前に3体作らせた内の1体を石田三成に与えたものが関ヶ原の合戦後に石田家の遺児が津軽に持ち込んだものと伝えられていて、幕府に遠慮し城内の神社の更に仏像の中に隠していたものが明治4年に見つかったそうです。
200年以上秘匿していながらも豊臣家、石田三成への恩を感じていた逸話です。
この像が革秀寺に保管されているそうです。

弘前城の無料ガイドさんから聞いて初めて知りました
豊臣家と徳川家との狭間で津軽家も義理や恩を感じていたことがわかります。
光明山無量院 誓願寺(弘前市)
津軽為信の軍師として仕えた沼田祐光(面松斎)が祀られているということで訪問。
八甲田山行軍遭難資料館(青森市)
雪山登山の事前準備を怠り、過信し、無能なリーダーに率いられた集団は悲惨な結末を迎えるという教訓です。
雪中訓練に210名参加し、死者199人という天災というよりは人災による事故でした。
戦死も哀しいですが、訓練中の事故というのも哀しい出来事だと思います・・・。
参加された方達やご遺族様たちの無念さを思うと心苦しいばかりです。
集団を率いるリーダーの重要性を改めて感じました。
ご冥福をお祈りいたします。

青森はどこにいっても桜と岩木山が綺麗でした。
さいごに
今回、青森県は津軽氏の史跡を中心に見学しました。
やはり現地に行ってみないと分からないこと、改めて現地に行ったからこそ分かることがありました。
単純に個人的な知識欲求の旅であり、「仕事に役立つのか?」という話ではありますが、知らないよりは知っていた方がよいことがありますし、ただ知るだけであればネットや本で調べることが出来る時代なので“知った気になる“ことが怖いことだと思います。
本当の「教養」と「知識」とは違うものです。
意味のない(と思われる)ことが実は後日役立ったということも個人的にはあるものです。
今年のリライブルはGWまでの期間は暖機運転でしたがGW明けからは本格的にエンジン始動していきたいと思います。
※「暖気運転長すぎだろ!」と知人に言われそうですがw
パワースポットもたくさん回りましたし、3日間天候もよく、感謝、感謝の旅でした。

弘前城名物らしいハートの桜
社名に掲げる信頼される(RELIABLE)企業を目指す!
リライブル株式会社
0120-669-920 (スマホの場合は上記を押すと電話に繋がります)

家財整理10年以上の実績があります!
・営業時間は9時〜17時が基本ですが転送電話で24時間対応可能です。
・基本的に土日祝日は作業はお休みですが、緊急性の高いお見積りの場合はご相談下さい。
・遺品整理・生前整理・不用品処分代行などの家財整理全般
・上記に伴う買取も積極的に行っており作業代の削減に努めます。
・孤独死現場・事件現場・自殺現場などの特殊清掃及び消臭作業 ・ゴミ屋敷・ゴミ部屋・汚部屋などの片付け及び清掃
・ペットの多頭飼育崩壊現場の糞尿臭の原状回復工事
・火災・ボヤによるスス臭の消臭(保険対応することが多いです)
・灯油漏洩現場の消臭作業(保険対応することが多いです)
・その他、ニオイや凄惨な現場でお困りの方はお気軽にご相談下さい。
【注意点】
・少人数で運営しているため、24時間事務所に電話番が常駐しているわけではなく転送電話にて対応しております。
・せっかくのお電話でも現場作業中ですぐに出られない場合に【非通知設定】だと折り返し電話がかけられない場合がございます。 ・お時間をずらして再度電話して頂けると幸いです。